裁判員経験者ネットワークは裁判員経験者の交流ネットワークです。
 

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■裁判員の心理的負担について  濱田邦夫(弁護士) [2010年11月23日]
 
 裁判員裁判が実際に開始された 2009 年8月以来1年以上が経過し、最近にわかに注目されるようになったのが、死刑求刑事件や死刑判決事件における「裁判員の心理的負担」 である。これらの事件においては、事実認定に争いがなく、量刑だけが問題となるものであっても審理期間は 2 週間程度と、それまでの裁判員裁判での審理日数(簡単なものはおよそ3日ないし4日)より長い。また本月17日に死刑求刑がなされた鹿児島地裁での事実認定が争われた強盗殺人否認事件では、これまでで最長の40日の期間、裁判員たちは審理に従事しなければならず、その身体的・経済的負担また心理的負担は非常に大きなものと言わざるを得ない。
 
 そもそも、一般の市民である(法律の専門家でない)裁判員が職業裁判官と一緒に重大な刑事裁判に関与すること自体で「心理的負担」が生じているのである。死刑求刑事件や死刑判決事件においては、判決が被告人の「生命」そのものを左右することとなる重圧から、その「心理的負担」の程度が著しく大きくなることで、ようやくこの問題が社会的に論議されるようになったと言える。これまで思いのほかうまく運用されてきたと一般に考えられている裁判員制度が、今後我が国社会・司法制度にしっかりと根付くためには、本問題に適切に対処することがどうしても必要である。
 
 裁判員の心理的負担は、審理中のものと審理終了後のものとに分けて考えられる。後者は、いわば裁判員経験者の「心のケア」の問題といえる。
 これまで多くの場合、裁判員は選任された日の午後からいきなり刑事事件の裁判という非日常に投げ入れられる。十分な心の準備もないまま、法廷の壇上に座らされ、被告人、弁護人、検察官および傍聴人等の面前にさらされることになる。そこで展開される法律的攻防は、それまで裁判員のほとんどあずかり知らない世界である法律とか犯罪という非日常である。さらに法廷で顕出される残酷な証拠写真、証拠物また証言に向き合わなければならない。
 
 検察官の提示するストーリーとこれに対立する弁護側が主張するストーリーの中で展開される被害者、被告人またそれぞれの家族等関係者の間の醜い、恐ろしいまた悲しい人間模様(人間の業・不条理)を、裁判員はいわば身をもって追体験することになる。しかも、単なる観客としてではなく、裁判体としてのストーリーを確定する責任ある当事者としてである。その過程で、裁判員は自分自身の人生を省み、自分の内面を見つめることを強いられる。また、これまでほとんど考えることもなかった地域社会や国の在り方、法律や裁判の意味自体も考えざるを得ない。国民の8割以上が支持しているといわれる、世界的にその存続が少数派となった我が国の死刑制度そのものも、視野に入って来ざるを得ない。
 
 さらに、評議の場では法廷で見聞した証拠に基づき、自分の意見を形成しかつそれを表現し、他の裁判員や裁判官の意見を聴き、そして法律の枠組みの中で裁判体としてのコンセンサスを共同して作り上げなければならない。このような作業は、家庭でも学校でも職場でも,これまであまりしたことがない作業である。この評議の結果は、被告人、被害者その関係者等のそれぞれの人生を左右することになり、裁判員は、その責任の一部を担うことになるのである。
 
 上記の状況は、すべて裁判員の強い心理的負担に結びつくものである。しかも、この作業を通じて、裁判員は名前ではなく番号で呼ばれ、お互いにどこの誰とも知らないまま別れさせられている。多くの場合、裁判員候補者としてのお知らせ(呼出状)さえ持っていけば、本人確認の手続きもなく裁判員に選任されている。社会的存在である名前のある一個人としてではなく、裁判体の部品(員数合わせ)として扱われているのではないか(私でなくともよかったのではないか)、との感を一部の裁判員経験者に与えていることも心理的緊張を増強する理由となる。
 
 プロの裁判官の場合、職業的訓練を経ていて、いわばガード(防衛機構)があり、またキャリアを通じて何十、何百の刑事事件に接しており、さらに生じた心理的負担をアース(地上放出)して自分の心身に留めないという技を持っている。そうでなければとても身が持たないということもある。一方、裁判員にとっては、いわば一生に一度の経験で、事案をまともに全身で受け止めてしまう。そしてこの心理的緊張・負担を開放する手立てを知らない。
 
 裁判所が用意している裁判員の心理的負担への対応策は、その裁判員メンタルヘルス相談窓口 http://www.health-letter.jp/bb/saibanin/ を通じて提供される、1) 24 時間電話相談、2)5回まで無料の臨床心理士、カウンセラーによるカウンセリング、および3)精神科医の紹介である。これまで誕生した約 4000 人の裁判員経験者がこのサービスを利用した件数は 61 件(本年 10 月末現在。内訳は不詳)とのことである。これを利用しなかったその他の裁判員経験者には、まったく心理的問題が生じていないかというと、そうではない。(いわゆる PTSD と言われる 心的外傷後ストレス障害やうつ症状が発症している経験者も存在する。)
 
 筆者の所属する朝日カウンセリング研究会(ACOhttp://www.aco-web.org/; 臨床心理士やカウンセラーの団体)は、裁判員制度実施の直前である 2009年5月に、最高裁判所に対し上記3種類の「裁判員の心のケア」対策を補完するものとして、裁判員経験者によるグループワーク(少人数のグループの経験者による、自分たちの経験や思いの分かち合い・話し合いを、臨床心理専門家と弁護士がサポートする(見守る)仕組み)を国が提供すべきことを提言したが、採用されなかった。
 
 裁判員裁判で否認事件や死刑求刑事件の審理が始まると予測された本年8月に、裁判員経験者3名、ACO他の市民団体、後援弁護士(筆者を含む)が呼びかけ人となり、協力研究者のサポートも得て、裁判員経験者ネットワークhttp://saibanin-keiken.net/ が発足した。このネットワークは、1)裁判員経験者たちの貴重な経験を社会に還元すること、および2)経験者の交流の場を設定して、その心のケアに資すること、を目的とし、9月20日に第1回裁判員経験者交流会(経験者7名のほか、弁護士、協力研究者、臨床心理士、市民団体代表者等およそ 40名が参加)を開いた。
 
 この交流会で、経験者全員だけで別室で開いた話し合い(臨床心理士2名と弁護士2名がサポートするグループワーク)でさらに明らかになったことは、「守秘義務」には全く抵触しない、単なる「お互いに大変だったねー」といった類の話し合いが、いかに経験者たちの鬱積した心理的負担を軽減させるかという事実である。前記の、裁判所が提供するメンタルヘルス窓口を利用するまでもないと感じている経験者たちにとって、この話し合いの機会・場は大きな救いとなるのである。臨床心理的に言えば、このプロセスは裁判員が非日常から日常に帰還・着地する(ランディング)ため、有効で必要な作業である。
また、この「守秘義務」なるものがいかに経験者たちに審理終結後の新たな心理的負担を生じさせているかということも明らかになった。そもそも、この罰則付きの「守秘義務」なるものは範囲が明確ではなく、不当に経験者たちを心理的に圧迫しており、審理中もその終結後もお互いに連絡を取り合うこともできない様な状況を作り出している。家族にも話せないし、友人とも、また職場でも自分の経験を話せない、といった心理的束縛を与えている。審理という濃密な時間を共有したいわば戦友ないしチームメイトとしての同僚裁判員経験者たちと事後に連絡を取ろうとしても、裁判所はその連絡の斡旋さえも拒否している。裁判進行中は、裁判所は裁判員を「宝物のように」丁重に扱っているが、審理が終わると「はい、さようなら」という感じで、ちっとも面倒を見てくれない、という感想を漏らす経験者が多い。
 
 検察審査員の場合、6カ月の期間仕事を共にし、任期中もお互いに名前のある社会人同士として自由に話し合えるし(裁判員と同様の「守秘義務」はあるが)、任期終了後も自由に集まることもできる。60年の歴史ある審査員のOB 会である全国的な検察審査協会(事務局は当該地方裁判所内にあり、地裁職員が担当している。)の会員は2万名を超すし、同期の審査員たちとの会合を2カ月ごとにやっている仲良しグループもある。また、裁判官は罰則なしの「守秘義務」を負っているが、職場の同僚としてお互いに事件のことを事後に話し合うことも事実上自由である。裁判員経験者たちだけが不当に「口封じ」され、その結果、イソップ寓話の「王さまの耳はロバの耳」と叫びたい床屋と同じ境遇に押し込められている。裁判員がシリアルナンバー入りのバッジ(かってお国のために戦った我が国の兵士たちに与えられた勲章のつもりなのだろうか)を裁判所から貰ったぐらいで埋め合わせられない。これは、審理終結後に発生する新たな「苦役」の賦課ともいえる、不当(アンフェア)な状況である。
 
 裁判員経験者ネットワークは、このような状況を改善し、経験者たちに自由な交流の場を提供することをその重要な目的の一つとして設立された。しかし、登録経験者数は現在約20名にすぎない。全国紙やテレビ等のメデ ィ アで何度も紹介されているにもかかわらず、登録者はなかなか増えていない。裁判所発表のアンケート等で、経験者の9 割以上が裁判員としての経験は意義があり、参加して良かったと述べている。しかし、時が経つにつれてボデ ィ ーブローのように効いてくる心理的負担があまりにも大きく、もう裁判員裁判とはかかわりたくない、という経験者の心理状態のためもある、と筆者には思われる。
 
 裁判員の審理中の「心のケア」は、審理期間が長引けば長引くほど重要になって来るし、また裁判員経験者の「心のケア」には、長いスパンで対処する必要がある。本人が意識するとしないとにかかわらず、心身に重い影響を残す非日常を国民の義務として体験した裁判員が、できるだけ元気に日常に復帰できるよう、裁判所のきめ細かい、また柔軟な配慮が望まれる。
[(c)2010濱田邦夫:森・濱田松本法律事務所デジタル所内報「今日の弁護士」欄2010年11月19日掲載]
韓国「国民参与裁判」の視察を終えて   
 上口達夫(司法改革大阪各界懇談会「韓国国民参与裁判視察団」事務局長)[2011年02月11日]
 
司法改革大阪各界懇談会では昨年11月に韓国の国民参与裁判を傍聴し、大法院の見学とソウル中央地方法院・ソウル地方弁護士会との意見交換などを行いました。以下は「報告記」です(PDFにてご覧いただけます)。
 
韓国「国民参与裁判」の視察を終えて(PDF)

 
■正義の創造  仲田信範(弁護士) [2011年10月03日]
 
 私は、裁判員経験者ネットワークの呼びかけ人に名を連ねています。日弁連の裁判員制度実施本部の委員でもあります。
 
1 無作為抽出による裁判員6名はどのように決まったのでしょうか
 まだ裁判員制度が制定される前の平成13年に、裁判員の数と選出母体をめぐって激しい議論がなされました。自民党司法制度調査会は平成13年5月10日「21世紀の司法の確かなビジョン」において国民の司法参加のあり方についてドイツ型の参審制を提唱し、参審員の数は現行のドイツと同様に裁判官3、参審員2を、参審員の選任について無作為抽出をとらずに参審員選考委員会等の選任機関によることを提言しました。
それに対して私は以下のように反論しました。
「無作為抽出はこの制度の根幹に関わる問題である。言うもでもなく人権条項で法の下の平等がうたわれ、成人による普通選挙権が保証されている現行憲法下において司法への国民参加において法の下の平等を実現しないことは憲法の停止を意味する。国政におけると同様司法への国民参加によって司法の権威を高めるとするならばそれはあらゆる国民から支持されなければならない。国民の一部だけから支持されてもそれは不平等や不信と不満をもたらすだけであり裁判の権威を喪失させるだけである。裁判員として裁判に携わる国民の資質として要求されるのは社会的な地位や能力・知識だけであろうか。物事を偏頗な考え方で判断するのではなく誠実さ、率直さ、正直さ、公正さ、公平さそして何よりも良心、正義感等、社会生活を送る上での基本的、普遍的な価値観を必要とするのではないであろうか。そのような価値観は決して一部の選ばれた人にだけあるのではなく広く国民一般が十分もっている資質であると確信する。価値観の相違や強弱は裁判員の数によって克服すべき問題である。選択によって解決し得ない。」
制度が実施されてから2年半が経過し、つくづく裁判員の選任について自民党の提唱した選考制度を取らなかったこと、裁判員の数を6名としたことが良かったと実感しています。

 2 「正義の創造」
 それはともかく、あらためて裁判の役割とはなんでしょうか。私は「正義の創造」だと思います。それは事実の認定、事実についての法律の適用、そして有罪とされた被告人に刑罰を科す、過程を通じてのことです。「正義の創造」といってもピンとこない、とおっしゃる方もいると思います。ではなぜ「正義の創造」というのかについて述べたいと思います。
 まず裁判で決まった事実は単なる客観的事実を超えて、「真実」とみなされるということです。たとえて言えばそれまでは事実の有無や事実の態様について、どのような議論も許されますが、一旦裁判で決まった事実は「真実」とみなされ、それ以上の議論の対象とはならない、ということです。こんなことを言うと、市民の裁判員にとって事実を解明したり、真実を発見するなんてだいそれたことはできない、と思われると思います。でも実際の裁判は、裁判員が証拠を探したり、証拠に基づいて事実を解明したりすることはありません。法廷に出された証拠や被告人や弁護人の主張を踏まえて、検察官の主張する事実が間違いなくあったと言えるかどうか、を判断することです。     そこで間違いない、と言えれば、検察官の主張は「真実」とみなされる、と言うことです。間違いない、とは言えないとされれば、それは「真実」とはみなされない、ことになります。
 「法律の適用」についても同様です。たとえば「殺人」と言ってもどういう場合が「殺人」と言えるのかについても裁判はそれを決めることができるのです。殺人とは「殺意」を持って人を殺す行為である、とされていますが、一体「殺意」とはなんでしょうか。人によっては「あいつを殺してやろう」と思って人を刺したり、撃ったりすることだ、と考える人もいます。裁判所は「人を殺す可能性が高い危険な行為であることを承知しながら、そのような行為をすれば殺人だ」と考える傾向が強くなっています。またまたこのように言えば、やれやれこんなことまで決めなければならないのはとんでもないことだ、と感じるでしょう。でも裁判員裁判では、法律の解釈・適用は最終的には裁判官の判断にゆだねられているから安心してほしい、と思います。「人を殺す危険性が高い危険な行為」と言ってもそれは一義的には決まりません。同じ行為でも人によって危険性が高い、と言う人もいれば、それほどでもない、と言う人もいます。そこで裁判の評議で決められたことが「殺意」の内容となるのです。
 最後に、刑罰についてです。有罪とされた被告人にどのような刑罰をどのくらい科すのかについても、絶対的な基準があるわけではありません。犯した犯罪の種類や重さ、被害者や社会に与えた影響、被告人や家族の状態、過去の事例等を総合的に判断し、評議で決めるわけです。
 以上のように裁判には真実、法律、刑罰を創造する役割があると思います。そういうとまたまたこんな気の重いことは勘弁してほしい、と思うでしょう。
 
3 「全員一致」
 ここで重要なことは評議における「全員一致」です。評議では気の重いことを決めなければなりませんが、評議の参加者が「全員一致」で決めた結論であれば、「真実」とみなし、「法の適用」を定め、「刑罰」を決めてもいいのではないか、ということです。だからいかに「全員一致」=「評議を尽くす」ことが重要であるかということです。残念ながら、現在の制度は「全員一致」を要求していません。単純多数決によることができるとされています。でも評議の重要性からすれば、全員一致が望ましいことは明らかです。さらに全員一致の結論であれば裁判員は安心して評議に臨むことができると思います。
 全員一致は困難を伴います。時間的な制約がある場合には特にそうだと思います。でも、コペルニクスの地動説を持ち出すまでもなく、少数(者)の意見がいかに重要であるかは、歴史が教えるところです。少数(者)を尊重すること、全員一致を目指すこと、これが裁判員の評議の要であると思いますがいかがでしょうか。
 ご存じのように陪審制をとっている英米では、陪審の評決は伝統的に原則として全員一致です。司法判断における社会のコンセンサスとしては12名の陪審員の全員一致によるべきだと言う伝統的確信に基づいているものと思います。
 
4 法曹の役割
 ところで、裁判員が評議を尽くすためには、法曹の役割が欠かせません。まず、裁判の審理過程を裁判員に分かるものにしなければなりません。裁判での争点や証拠について、誰もが分かるように説明することです。でもこれは我々法曹にとって中々難しいことです。しかし訓練や技術の獲得で克服していかなければなりません。また裁判員が安心し、かつ納得できる評議を進める上で、裁判官の役割が大きいことは言うまでもありません。
 
5 住みやすい社会を目指して
 「知らしむべからず、寄らしむべし」、これが我が国の統治方法の要であったと言います。でもこの統治方法がいかに脆弱であったかも歴史が教えるところです。難しそうなことは専門家に任せるのではなく、専門家に何が争点なのかとか、証拠の内容を分かりやすく説明させて、最後の結論は自分(達)の常識で判断して決定する、すなわち自分(達)のことは自分(達)で決める、という自己決定の精神こそ必要とされているのではないでしょうか。専門家(裁判官、検察官、弁護士等)というのはさまざまなバイアス(偏向)や利害関係が絡んでいて必ずしも公正無私な立場で判断するものではないことも歴史が教えるところです。いつの間にか自分たち仲間の基準や論理で物事を決めてしまうようになっているのではないでしょうか。
 考えてみれば、私たちは自分の立場や考えを客観的に示し、それを人に説得する技術の習得に訓練されていないことに気づきます。また人の意見を丁寧に聴くという重要さに気づいていないことに気づきます。裁判員が審理の過程で争点や証拠について理解し、評議で人の意見に耳を傾け、自分の意見を述べ、人と議論をしてお互いの結論を導き出すということはそう簡単なことではありません。裁判員制度が定着するということはこれらの考え方や技術の習得が定着することです。日本で暮らす人がもっと住みやすく、日本がもっと愛着の湧く社会になることを期待して。